バスはヴェネチアを早朝発ち、フィレンツェの市街にほどちかい高台のミケランジェロに着いたのは昼過ぎでしたでしょうか。

高台から赤レンガの建物が並ぶフィレンツェの街を一望して、なにか違和感を感じました。それは目の前にある一つの教会が街全体のバランスに対して巨大すぎること。なんだあれは??今なら知識もあり普通に見えますが、その時フィレンツェについての知識はまったくのゼロでした。無知蒙昧なわたしは街の真ん中にどでかいキューポラを持つサンタ・マリア・デル・フィオーレ、花の聖母マリア教会のあまりの大きさに驚くしか有りませんでした。建設に140年かかったといわれ、その建築にはフィレンツェルネッサンスの総力を集め、ブルネレスキが巨大なキューポラを設計し、レオナルドダビンチが天空にそびえるキューポラの屋根に黄金の球を乗せました。全長153m、幅90m、高さ114m。キューポラは八角形で内径43m。聖堂の大きさとしては世界で4番目に大きい教会と言われています。

フィレンツェの巨大なキューポラに驚愕した瞬間
この巨大な聖堂は視界いっぱいにひろがります。

フィレンツェについて全く知らないのですから当然ウフィツィ美術館も知りません。ボティッチェリのビーナスの誕生を見たときにはあのよく見る絵と驚きました。そしてミケランジェロのトンド(丸い絵)「聖家族」は父の本棚の画集にあり知っていました。その他知った絵がおおく、ウフィツィの名もしらない自分の不明を深く恥じました。これからとにかくヨーロッパについて勉強をしなければと焦りにも似た気持ちで過ごしたフィレンツェでした。

ウフィツィ美術館 ミケランジェロのトンド(丸い絵)「聖家族」

そのツアーにはひとりロロピアーナの日本人スタッフでイタリア語ができるSさんがいました。わたしはイタリア語がまったくできなかったのですが、彼のイタリア語を耳にしてなんだかイタリア語がちょっと解ったような気がしてきました。聞いたことのあるグランデ、ピッコロ、ドマーニ、カーザなどの単語がちりばめられたこの言葉ならひょっとして覚えることができるかもと感じました。それから2年後、名古屋の筒井美芳先生のイタリア語教室に通い始め、その後ナディア・カラット先生にも教わり、なんとかへんなイタリア語ですが話すことができるようになりました。これはのちにピッティイマジネウォモに通うのに大変役に立ちました。

フィレンツェ市内で服地を扱うお店を見つけましたが服地の値段は安くなかった。

フィレンツェの名物料理はビステッカフィオレンティーナでいわゆる炭火のTboneステーキ。そのステーキで知られるレストランに連れて行ってもらいましたが日本のテーラーの一行、豪華なイタリア料理つづきにあんぐりしてきた人も多くなってきていました。また当時は狂牛病で特にヨーロッパの牛の骨は危険だと言われていました。ですから一人500g以上のステーキに多くの日本人テーラーは巨大な肉の片隅だけを食べほとんど残すたていたらく。私は健啖家の日本男児(ただのデブ?)ですので自分の分はTの字の骨だけにして、他の人の分も少々いただきました。幸運なことに心配していた狂牛病にはかからなかったことは健康な身体をいただいたご先祖様に感謝しなくてはいけません。

この景色をこれ以降ピッティに行くため何十回も見るとは思いもしませんでした。