1990年代、クラシコイタリアブームが起こり、世界でもキトン、アットリーニの活躍がありナポリ式洋服作りの再評価が始まった。そのナポリ式の代表的ディティールとしてバルカポケットがある。スーツの胸のポケットはそれまでは斜めの直線だったがイタリア語で小舟を意味するバルカポケットはまるで船底のようになだらかなカーブを描く。ナポリ式洋服作りについての名著「ナポリ仕立て 奇跡のスーツ」によればナポリの名店ロンドンハウスにてジェンナーロ・ルビナッチとヴィンチェンツオ・アットリーニによってこのバルカポケットが考案されたとある。わたしはこのバルカポケットをとても気に入っていて当店では船のへさきに当たる部分を手マツリにしたこのバルカポケットを標準装備している。気に入っている理由は2つある。

理由その一 高級スーツは丸い。
エレガント、高級と言われるスーツは基本的に直線は少なくほとんどが丸みをもった曲線を使って裁断されている。それはスーツを着る人間の身体には直線的な部分が無いから。縫製コストをかけられない安物の服は直線同士なら縫いやすいため直線を多用するが、エレガントなスーツの裁断はほとんどすべてのパーツが曲線で構成されているため、縫うときにはカーブがあることを留意しながら少しずつイセを入れたりして縫わなければいけない。日本最高のモデリスタ柴山登光先生はさらに縫い合わせる2つのカーブについてどちらが主でありどちらが従であるかも考慮しなくてはいけないと説く。ジャケットのなかで一番目立つ部分ともいえる胸のポケットのラインも当然丸みがあるとスーツ全体の丸みと調和してくる。わたしはこのバルカポケットをナポリ特有のディテールというより普遍的なディテールにすべきと考え、わたしは10年以上まえから当店のすべてのスーツ、ジャケットの標準装備で採用している。
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当店のバルカポケット。船のへさきの部分は手まつりで仕上げている。
理由その2 アンティーク趣味
古いスーツを見ると分るが胸のポケットを直線に仕立ててもは何年か経過すると胸の重みでこの直線がだんだん垂れ下がり、カーブを描いてくることがある。 クラシックを愛するいうことはやたら新しいモノに走ることなく古いモノを大切に直しながらでも着る心である。クラシック志向に近いがすこし屈折した感情であるとも言われるかもしれないがアンティーク趣味というものがあるとおもう。ファッションの世界には新品をアンティック風に見せる加工がある。一番知られるのはデニムのダメージ加工。デニムをサンドペーパーやストーンウォッシュで表面を傷つけ、この加工を施すと何年も着てすり切れたりアナを空けたように見える。いま新品に見えるデニムを着ている若者などだれもいないほどポピュラーになっている。ロックでよく使われるフェンダーのソリッドギター、ストラトキャスターをぼろぼろに傷つけて古く見せる仕上げもカスタムショップなどで見ることがある。スーツのバルカポケットもそれと同じでぱりっとしたスーツの中にどこか着込んで古くなって着慣れた雰囲気を醸し出す効果がある。機械など純粋な工業製品とは違い、
スーツはこうやって味わいを出す事により人間に寄り添う存在になっていくのだろう。
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同じ縫製工場で30年前に仕立てた。胸のポケットが下がり、すこしカーブに見える。

バルカポケット製作の実際
バルカポケットを作るには直線の胸ポケットよりいくつもの工程が余分に必要となる。いま当店のスーツを仕立てている縫製工場での工程の一部を紹介する。
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バルカの専用ゲージをあてながら、アイロンで形を作っていく。熟練していないときれいなカーブにならない。
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エッジは角ではなく小さなマルにするのもこだわり。目打ちとアイロンを使ってきれいな丸形を作る。
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出来上がったパーツ。この時点でカーブがあるのがわかる。
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柄合わせをした上で縫い合わせる。一番原始的なローテクミシンでゆっくり付ける難しい工程。
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船の舳先の部分は手マツリで仕上げる。一番目立つところだからずっとこうしている。当店のスーツ作りを担当している工場には最新式ミシンに混じってこういった手作業の工程が数多くある。