たった一人の恩師、田中駿平先生が昨日ご逝去されました。謹んで心よりご冥福をお祈り申し上げます。
先生は名優・田中邦衛さんの弟君でもあり、このサイトをご覧の方の中には、先生にまつわる記事や、時折寄せてくださったウィットに富むコメントを覚えておられる方もいらっしゃることでしょう。

先生と初めてお会いしたのは、私が麗澤大学外国語学部英語科の一年生だった春。
そしてゴルフ部の顧問だった先生はゴルフ未経験の私がおそるおそる入部したとき、土岐ご出身の先生は、「名古屋から下手そうな少年がやってきた」とどこか親しみを感じてくださったと後に伺いました。

やがて大学四年の春、私の父が、大学隣のモラロジー研究所・経営相談室を訪ねたことがすべての転機となりました。
当時、家業の紳士服地問屋は行き詰まり、父は立ち直りのヒントを求めて田島正芳先生を訪ねたのです。
しかし持参したバランスシートを前に、田島先生は「これはもう立て直せない。すぐに廃業を」告げられました。
その場で、大学四年の息子がいると知ると、たまたま隣家にお住まいだった田中駿平先生に、「その息子さんを相談室に連れてくるように」と伝えられたそうです。

こうして私が相談室に呼ばれたとき、田島先生からは家業の廃業と同時に、大学を辞めて後始末にあたるようにとの厳しい言葉がありました。
私は、うすうす感じていた家業の苦境を前に、迷わず従うと答えました。
その決断を聞いた駿平先生はたいそう驚かれ、心を痛められたようでした。
自ら担任した学生を、家業の事情とはいえ退学へと送り出すことになる。
それは教育者として先生が決して望まぬ形だったに違いありません。

その後、父と私はを紆余曲折を経て紳士服地商を廃業しテーラーという新しい仕事を始動、今に至ります。3年後ゴルフ部の後輩の仁美との結婚の折には主賓としてご祝辞を賜りました。折に触れて連絡くださり、私も大学を訪ねては近況をご報告申し上げました。なんどかゴルフに興じたのも良い思い出です。時折フェイスブックを通してわたしのブログに渋いコメントもいただきました。

折に触れて思い出すのは、あのときの私の未来を案じてくださった深い慈しみ。先生、本当にありがとうございました。いまはただ、安らかなる眠りをお祈り申し上げるばかりです。

3年前の1月、最後にお会いしたとき、山崎裕二先輩と。マスクを手に持っているのでコロナ禍中だとわかる。
その際は先生と廣池学園ゴルフコースでゴルフもしました。窪田哲弥先輩と。