今日は栄で、愛知県美術館で「展覧会 岡本太郎」が開催されているというのででかけました。昨年9月には友人Kとともに太陽の塔の内部を訪問。子供の頃にトラウマに近い強烈な印象を残した太陽の塔は、50年経過した今も強烈なオーラを放って吹田に屹立していました。
岡本太郎は1996年に亡くなりましたが私の若い頃は岡本太郎の作品で世の中は満ちていました。ですから戦後の昭和、20世紀後半の日本は岡本太郎がデザインしたといっても言い過ぎではないでしょう。われわれ昭和30年代に生まれた世代は「タロージェネレイション」かもしれません。
栄交差点の大壁画の撤去で落胆した思い出
展覧会の会場愛知県美術館の10階会場を入ると、まず最初に愛知県に馴染みの深い岡本太郎作品が展示されていました。
思い出のひとつは栄の交差点のデパート、オリエンタル中村の壁面に存在した「花・星・人」です。これは大阪万博の次の年、1971年に作られ、1978年オリエンタル中村が名古屋三越に変わった時、撤去されました。強烈な印象を与えた割にはたった8年しか存在しなかったのが不思議なくらい。夜になったらイルミネーションにもなる大好きだったこの壁画が撤去され、ありきたりな三越の金の紋章に変わったときは、すごくがっかりして正直、当時三越がキライになったりもしました。
ほとんど絵を売らなかった画家。人生、即、芸術。
岡本太郎は公共のために描いた絵やアート作品は別にしてほとんど絵は売らなかった希少なアーティストです。ですから今回の絵の多くは岡本太郎記念館、川崎市岡本太郎美術館に所蔵のものとなります。お金や生活のことを考えずに、純粋に自らの芸術に没頭でき、芸術家としては極めて幸せだったといえます。その純粋さが公共団体、実業家、大企業に認められるようになり、太陽の塔のような国家ブロジェクトに取り組んてきたことが面白いところです。
岡本太郎が興味をもっていたこと
岡本太郎は縄文土器を見た時強烈な印象を持ち、昭和には縄文文化の大きな紹介者にもなりました。はじめその土器をカメラマンにとらせていたそうですが、その画像が気に入らず、以降自分でカメラに収めることにしたとのこと。そのスライドも展示していました。
題材は「恐山」「久高島イザイホー」「ナマハゲ」「かまくら」など。利休以来の予定調和な「ワビサビ」には興味をしめさず、日本列島の奥に元始から潜むパワーのようなものに目を向けていた気がします。久高島、万治の石仏には訪問したこともあり自身興味がある部分でとても共感できます。
湧き出るモチーフ、イメージ
表現法、モチーフなど多くのアーチストは自分の芸術を求めるため命を削って呻吟するようですが、岡本太郎の場合はどんどん、モチーフ、イメージが身体の内部から湧き出し、頭より先に手が動いていたくらいだったそうです。そんな豊かな創造パワーを持つ岡本太郎は同じ、戦争、原爆、現代文明についてのプロテストを描いても、ただの矮小なプロパガンダと違うものを感じます。
愛知県美術館に僭越ながら一言
愛知県美術館は長沢芦雪、曾我蕭白など個性的な展覧会を開催して好きな美術館です。また今回はゲルハルト・リヒター、アンディ・ウォーホルと同じく、スマホで写真撮影自由でうれしいかぎり。
ただチケットが現金のみというのが残念。アートという先駆的な存在でレガシーな現金のみではワールドスタンダードではありません。世界はもちろん東京も京都もみんなカード払いオッケーです。愛知県の文化事業を担当する部署様なにとぞ改善をおねがいもうしあげます。