スーツの上着の断面は表地、芯、裏地となっている。裏地は隠れた部分だが一番人間の身体に近いため着心地に影響する重要な要素。古くはシルクだったが現在では独J.P.ベンベルク社が1918年に製造を開始した銅アンモニアレーヨンの商品名キュプラ日本名ベンベルグを高級品に使う。天然由来のためすべりの良さに加え吸湿性がある。(くわしくはここを参照)現在、当店のオーダースーツ、ジャケットすべてにキュプラ裏地を使っている。やはりポリエステル裏地は安価なだけに着心地にヤスモノ感があり使いたくないのだ。
昨年お客様からエルメネジルドゼニアの服地をオーダーしたときエルメネジルドゼニアの名前が入った裏地はつくのですか?とお問い合わせがあった。私どもはロロピアーナもエルメネジルドゼニアもドーメルも並行輸入を使わずすべて正規代理店から入荷している。そしてその正規代理店ではブランドネーム入り裏地も扱っているがブランドネームを織り込んだ裏地を使うことは当店ではしていない。
僕はいつもできるだけお客様の希望はかなえたいとおもっている。ゼニアの表地にはゼニアの裏地をつけるのがジェニュイン「純正」だとのお客様の要望は分る。でもぼくの心に急ブレーキがかかってしまった。「すみません。当店ではブランドネームが入った裏地は使わないんです。」理由が分らないお客様はきょとんとした顔でぼくをみつめた。
いつからブランドネーク入りの裏地が出来てきたのか?
私がこの仕事を始めた30年前はブランドネームの入った裏地をスーツの仕立てに使うは一般的ではなかった。そもそも紳士服地ブランドはミルといって毛織物工場(例ロロピアーナ、エルメネジルドゼニアなどの名前を名乗る場合とマーチャントつまり服地卸し商(例ドーメル、スキャバル、ホーランド&シェリーなど)を名乗る場合の二通りがあった。バブル期には総合商社I商事の主導で喫煙具ブランド、革製品ブランドなどつまりライセンスブランドが日本の紳士服地マーケット流れ込んで来た。服地の耳にブランド名をいれた服地を毛織物工場に織らせデパート、テーラーを通じて高級品を渇望していた日本人に売り込んだのである。服地の柄は商社が選びそのブランドの名前を織物の耳に織り込み生産したメーターに応じてライセンス料を払う、そしてその服地はマーケットに価値あるものとして流れるというビジネスモデルだ。その時、ブランドネームを織り込んだ裏地を付属することでブランド名を強調するのが流行した。
「ライセンスブランド」への疑問
当初は当店でもライセンスブランドを扱っていたが次第に織元の「出自」が分りにくくデザイン、ものづくりに関わっていないライセンスブランド服地に意味があるのかと疑問を抱くようになって来た。そしてその訳の分からなさを結果として隠蔽することになるブランドネームを織り込んだ裏地に「違和感」を抱くようになった。その「違和感」を解消する事が出来ない事がわたしがブランドネームを織り込んだ裏地を使わない一番の理由だ。
その後「本物の毛織物工場」であるロロピアーナ、エルメネジルドゼニアでさえもマーケットの要望に応えブランド入りの裏地をリリースした。スーツの内側に付ける誇り高き織りマークで自社製品の正当性を証明するロロ、ゼニアがブランドネームを織り込んだ裏地を重ねて使う必要は無いと私は思う。
スーツは「匿名」なもの
スーツはメンズファッションのヒエラルキーの中でも最上位に位置するアイテムだ。品質のいい素材を使って美しい縫製とサイジングの良さがスーツの美しさを実現する。表にブランドネームを縫い付けたり貼付けたクラシックスーツはない。あくまでアノニマス(匿名)の存在でブランドネームの入った裏地などまったく必要ないものだ。クラシックスーツは書かれたテキストではなく着ている人と服のかもしだす味わいで人はその価値を知る。
テーラーの重要な使命
優秀な服地を色柄だけではなく素材レベルで検証しお客様に推薦するのはテーラーの使命であり、同じくいい原材料で作られた裏地、ボタンなどを推薦するのもテーラーの使命であると考えている。スーツ、ジャケット服地として当店はロロピアーナ、エルメネジルドゼニアなど優秀な毛織物工場で作られた服地のなかで実績のあるものを選びお客様に紹介している。裏地も同様にキュプラの総本山である旭化成の100%キュプラを使い、これに飽き足りないお客様には日本製に出せない美しい色で着心地もいいフィレンツェマリックのキュプラ100%裏地をテーラーの立場で選んでいる。
今年もマリックの裏地が入荷