何年前のNHK日曜美術館で紹介されて、来ずっと行きたかった植田正治写真美術館に先週出かけた。松江から中海の道路を通りべた踏み坂として有名な橋を渡り境港から米子をかすめ大山の雄大な景色が見ながら走ると田園にある美術館に着く。
高松伸設計のコンクリート打ちっぱなしの建物もとっても素敵。入り口がよくわからない面白い建物でやっと見つけた入り口から入る。3階建ての建物に写真家として87年の生涯を生きた植田正治の写真が展示されている。
それまで植田正治のことは全く知らなかったが日曜美術館で紹介された作品にとても惹きつけられた。フランスでダゲレオタイプとしてありのままを映すことを目的として生まれた写真が、しだいに芸術として高められてくる。その過程に植田正治も存在する。彼の作品には明確な意図があり作品を見ていると芸術性とやさしいユーモアを感じる。昭和を、そして日本を代表する写真芸術家ですが見ていてとても楽しいし全く古臭さを感じない。もっと早く知っていちどお会いしたかった。
生涯はwikipediaで調べると
出生地である鳥取県境港市を拠点に70年近く活動。前衛的な演出写真は「植田調」として知られ、写真誕生の地であるフランスでも日本語表記そのままに「Ueda-cho」として紹介されている。経歴鳥取県西伯郡境町(現境港市)に生まれる。生家は履物店(商号は「下駄屋」)である。小学生の頃に写真をはじめ、米子写友会、日本光画協会、中国写真家集団、銀龍社などに参加。写真雑誌のコンテストでも、多数の入選を得るなど、戦前、戦中、戦後にかけて活躍。特に1980年代以降、多数の展覧会開催や写真集出版を行った。 数ある作品の中でも、鳥取砂丘を舞台にした「砂丘シリーズ」はよく知られている。植田作品は人をオブジェのように配する構図や、逆に物を擬人化するなどの特徴を持ち、土門拳や名取洋之助の時代以降の主観や演出を重視した日本の写真傾向と合致し、また、その後に大きく興隆する 広告写真、ファッション写真とも親近性があったこともあり、次第に評価が高まった。1994年、シンガーソングライター、福山雅治のシングル「HELLO」のCDジャケットを手がける。それ以降、福山とは親交を深め、写真を指導した。2000年7月4日、87歳で没。