ピッティイマジネウォモレポートはまた帰国後に続編を書きます。
兼高かおるさん死去のニュースを旅先のミラノで聞く。我々世代の多くは彼女の子供。まだまだ日本が貧しく海外旅行など行けないころ(両親の新婚旅行は南紀白浜!)彼女の旅の番組を見ては外国への夢をふくらませていた。
まだ中学生の頃か、エルメネジルドゼニア社のまるで邸宅のような織物工場へ訪問する回があった。この服地メーカー知ってると父に尋ねると、田中羅紗店でも扱いはじめたとのこと。世界と父の店の関わりに誇らしい気持ちになった。わたしも妻も、そしてその子供たちも旅好きになったのは彼女の大きい影響であることは間違いない。RIP.
ピッティイマジネウォモは2日目、午後までじっくりと見てその後ミラノへ特急Italoで戻る。その前に遅い昼食をとっていたらiPhoneへItaloからメールが。見ると60分遅れるとのこと。遅れるのは迷惑だが、突然駅で気がつくよりは助かる。気楽に昼間からトラットリアで赤ワインを楽しむことに。
それでミラノ中央駅に着いたのは6時20分。ホテルには7時に着いた。いつもは昼間は飲ま
ないことにしているので、アセトアルデヒドが残る身体は重く腹もすかない。
でもそれでドウオモが窓から見えるホテルに引きこもっていては旅の意味もなくなる。いつも来ているミラノだが少し散歩をと周辺を歩くことにした。建築に半世紀以上かかったゴシックの傑作のドウオモ。壮麗なヴィトリオエマニエーレのガレリア、オペラ座近くのレオナルドダヴィンチのモニュメント、王宮などを改めてミラノの街の味わいを確かめる。途中立ち食いのおにぎり屋さんを発見。日本料理は旅先で食べないポリシーだが、全てには例外がある。イタリア女性が握るちょっと硬めのご飯のシャケのおにぎりと豆腐の味噌汁にほっこりする。
街並みを楽しみながらホテルに戻ろうとして地下鉄の駅を発見。見ると駅の名前が違う。
へえすぐ近くに地下鉄の駅があるんだと思ったがそれはかなり遠くまで気付かず歩いてきてしまったということ。ミラノは綺麗な街だが少し中心を離れると浮浪者も地面に寝ている。知らない男に声をかけられたり、旅慣れたつもりの我々に急に不安な気持ちが襲う。そんな時はガジェット。iPhoneのGoogle mapで調べるとホテルからかなり離れている場所だった。ビルの回廊をいくつも通ったり、危険そうな暗い道は駆け足で抜けたりしてiPhoneの画面を確かめながら進みホテルの看板を見つけたときは本当にホッとした。やはり碁盤の目の街で育った人間は放射線状の街を地図なしで歩くと認識を誤る。それは街がラビリンスに変わった瞬間でした。