ウイーンの目抜き通りの一番中心、バロック様式の美しいペスト記念柱が建ちランドマークとなっている。その目の前の壮麗な建物にあるテーラーが「KNIZE」(クニーシェ)。第一次世界大戦の頃から名を馳せ、マレーネ・ディートリッヒもここで仕立てたと言われている。今日は「KNIZE」と当店とのヒストリーについてのお話。
ウイーン市街のモニュメント、ここのすぐ右にKNIZEはある。
クニーシェ。左がレディース、右がメンズテーラー
すぐ裏にあるクニーシェのカジュアル店
オーダーサロンタナカの洋服は1979年以来40年近くずっと一つの縫製工場で仕立てられている。
その工場は現在は長崎に移転したが、当初は東大阪の石切にあった。縫製工場の代表は軽く着心地の良いスーツを仕立てたいという強い意思を持っていて、当時、高い技術を持っていた他の縫製工場の技術者を招聘し軽い毛芯で仕立てたり、当時ソフトな着心地で知られていたエルメネジルド・ゼニアのスイスの工場を視察したして意欲的に研究を重ねていた。時を同じくして、御幸毛織はとても薄い夏素材「シャリック」を開発した。ただこのシャリックという素材は極薄のため街のハンドメイドのテーラーでは縫製が難しく、どこかで美しく縫えるところがないかとその縫製工場に白羽の矢が立ち、その工場が美しく仕立てることに成功したので、御幸毛織はその工場に資本を入れ、共同で縫製事業をはじめた。
同じ頃、テーラー向け紳士服地問屋をしていた父は良い縫製工場をずっと探していた。羽のように薄いシャリックの服地で美しく縫い上がった試作のジャケットを御幸毛織の担当者に見せてもらい、その美しさに驚いた。薄い服地が上手に仕立て上がるなら普通の服地ならなおさら美しく仕立て上がるに違いないと考え、以来当店のスーツはすべてこの縫製工場に仕立ててもらっている。
1970年代後半、まだ日本はブランド信仰全盛で、ただ美しく軽い縫製というコンセプトだけでは見向きもされなかった。なにかブランドを付加してイメージを高め、日本全国にこの縫製を紹介しようということになり、ヨーロッパで著名なデザイナー、ショップを探した。そしてこのウイーンの名テーラー「KNIZE」に白羽の矢を立て、ブランド名として使うことに決めた。ウイーンでブランドを使う契約をして、パターンも導し、そのパターンを日本人に合うように改良しチェーン展開もすることとなった。元御幸毛織代表取締役奥村潔氏も入社二年目に契約締結に立ち会ったそうだ。
現在当店は、タバコ屋やカバン屋、デザイナーさんのブランドのついた紳士服地はすべて排除し、ロロピアーナ、エルメネジルド・ゼニア、ドーメルと生産基盤の明らかとなった服地だけをおすすめしている。しかし40年前はそんなコンセプトも無く、当時の当店で仕立てたオーダースーツには契約が満了するまでこの「KNIZE」の織りネームをつけていた。また当時わたしはヨーロッパ未体験で「KNIZE」と銘打ちながら、ウイーンの「KNIZE」がどんなテーラーかは知る由もなかった。
しかし紳士服好きの中では有名な書籍「GENTLEMAN」の中である日「KNIZE」の記述を見つけた。やはり本当にヨーロッパのダンディの間では著名なテーラーだったのだ。それに気づいて以来ウイーンの「KNIZE」に行ってみたかった。このたびピッティウオモに行った帰りに、伺うことができた。
大通りに面した壮麗かつクラシックな建物の1階2階をクニーシェが占め、オーセンティックなテーラーを展開して裏通りにカジュアル店がある。まずカジュアル店でカシミアのマフラーと帽子を購入、その後テーラーに訪問。テーラーは2階にあり、もし見せていただけるならとお願いしたらマダムが招き入れてくれた。ウイーンはクラシック音楽、オペラ、バレエの本山。クラシック愛好家や学ぶ人々が多く行き交う街。式服の頂点の燕尾服が世界唯一日常使われる街がウイーン。当然クニーシェはこれを得意とする。またスポーツジャケット、ビジネススーツもビスポークできる。われわれが訪れたときも若いお客様が仮縫いをしていた。クラシックでありながら古びてなく街の伝統的ちゃんと息づく名店だった。帰りに美しい白蝶貝のカフリンクを購入しマダムに見せていただいたことに謝意を表すとパヒュームの試供品もいただいた。
クラシカルな2階ビスポーク部
ことしトレンドのコーデュロイジャケット
燕尾服を得意とするテーラー
店内でマダムと
クニーシェで買った、白蝶貝のカフリンクとカシミアマフラー。いただいたパフューム。