和食が世界遺産に登録された。世界遺産になってもならなくても、我が家の卓袱台には和食がかわらずならぶだろうし、和食をなりわいとするものではないので新たな感慨はない。世界遺産の「遺産」という言葉は「ずっと継承してきたもの」というよりは過去に失われた物の「残り物」というイメージがあるので和食という日本の普通の暮らしで食べているのがそれに値するかどうかは僕には判断できない。和食が登録される前、世界遺産になったのはメキシコの食文化だったそうだ。メキシコの食文化ときいて思い出が急に蘇った。
アメリカ大陸には一度北米ボストン、ニューヨークに遊びにいったきりで、中南米、南米には行ったことがない。そんなぼくだがまだ見ぬメキシコには深い縁がある。もう60年以上前のはなしだがおじいさんの兄弟がメキシコに移民した。田中家のもともとの出身はお茶の産地として知られる三重県四日市の奥、水沢(ミズサワではなくスイザワと読む)、農家できっと生活が苦しかったので移民を決断したのだろう。移民した街はよくハリウッド映画に登場するアメリカとの国境の街ティファナ。おじさん夫婦は言葉も分からない異国の地で奮励努力を重ねたのだろう、そこで貿易商と雑貨店を経営していた。お店のなまえはカサタナカ。無知だった子供の頃にこの名前を聞いて、なんで傘田中なんだろと思っていたが、CASA イタリア語でカーザでつまり田中家ということが今になれば分かる。行った事はないのでどんな暮らしをしていたかわからない。でも僕の子供の頃そのおじさんは日本に帰ってくると、向こうのお土産をたっぷり、こどもにはガムやチョコレートや玩具もいっぱいおみやげにもってきた。それから想像するときっとメキシコで成功したのだろう。メキシコのおじさんの奥さん、つまりメキシコのおばさんはたびたび僕の家にくるとキッチンでメキシコ料理をつくってくれた。父母はくどいとかいって敬遠気味だったが僕はその料理が大好きだった。いろんな料理を作ってくれたいくつかは今でも覚えている。名前は忘れたが豆をラードで炒め煮た物。これが一番好きだったがモレというブラウン色のソースで鶏を柔らかく煮たもの、そしてそれらをつつんて食べるトリテアと言う、小麦粉をサラダ油を混ぜて練って焼いたクレープのようなもの。おばさんとおじさんは純然たる三重県出身の日本人だったが長いメキシコ生活で日本語をわすれたのか会話の中にスペイン語が混じっていた。その後おじさんは早く亡くなったがおばさんはその後帰国して名古屋に住んでいた。日本に帰ってからもひろちゃんが好きだからといってときどきその料理をこしらえてくれた。だからメキシコ料理はぼくにとって懐かしいふるさとの味だと感じている。おばさんも亡くなったのでその懐かしい料理は永遠に食べることが出来ないがぼくの記憶のなかでずっと残っている味だ。