45年前の昔話で申し訳ありません。高校時代のわたしはロックにのめりこみ、思春期なので勉強にも熱が入らず異性のことばかり考え目標もなくだらだら生きてほんとダメ人間でした。当然受けた大学は全部落ち浪人の憂き目に。浪人中でもセンチメンタル・シティ・ロマンスの事務所にいりびたり、勉強を始めたのは10月頃。そんなわたしに父親は千葉の麗澤大学を勧めてくれました。

受験前に東海高校の恩師、立松文市先生による英文解釈の個人指導により、受かるには受かったものの行く行かぬで父親と大喧嘩の末、渋々入学。当時麗澤大学は外語学部だけの単科大学で全寮制。水が合わないと思っていましたが入学してみると楽しい日々が待っていました。ただクラブ活動もしなかったので授業以外はやることもなくブラブラしていたら、見かねた三重県の先輩、故杉本朝男さんがゴルフ部に勧誘してくれました。

スキー、サーフィン、テニスに乗り遅れたわたしはゴルフならいいかなと思って入部を決め、それまで長髪のロックンローラーでしたので、入部する前にさっぱり髪を切ってデニムもやめスラックスを履き、ゴルファーになりました。麗澤大学の母体廣池学園にはパー3が9ホールパー27のゴルフコース、廣池学園ゴルフコースがあり、そこで大学時代を楽しむこととなりました。

変わらぬ廣池学園の姿
学園のまんりょう

廣池のリンクスはふるさと

昨日は懐かしきわがふるさと廣池学園ゴルフコースに当時ゴルフ部の後輩だった妻を連れてでかけました。朝6時41分の新幹線に乗り、上野で常磐線快速に乗り換え、松戸からは各駅で南柏駅に着いたのは9時20分、顧問だった田中駿平先生が駅前で待ってくれました。ホーズで有名な元ハリソンの窪田哲弥先輩を朝誘ったら幸いにも付き合うとのこと。久しぶりでしたが45年前となんら変わらぬクラシックなリンクスの姿に感激しながら、左右前後のブレを許さぬ難コースに立ち向かいました。田中駿平先生は当時より進化したスイングを見せ、窪田さんの名人の技に立ち向かいながらなんとか32/33=65でラウンド。本当に楽しい時間でした。

田中駿平先生、窪田哲弥さんと廣池学園ゴルフコース1番ホールにて。
最終ホール9番は難ホール。

わが仕事のジェネシス

ゴルフのあと、田中先生のはからいで麗澤大学研究室まで、麗澤大学の先輩でもある田島忠篤教授に面会に伺いました。

それは1981年。大学3年を過ぎ、4年になった春、父親が麗澤大学に来ました。当時はテーラーでなく、テーラーに紳士服地を売る羅紗(らしゃ)店つまり服地卸商がお仕事でした。ハンドメイドテーラーも減り、服地代金の回収も滞り、したがって業績が悪化して立ち行かなくなり、麗澤大学の母体モラロジー研究所に経営指導を受けに来たのです。田島忠篤教授のお父様、モラロジー研究所経営相談室長、故田島正芳先生はバランスシートを詳細に見て、一刻も早い会社整理を父親に勧めました、

父親はその際、いい縫製会社と付き合い始めていることも話したのでそして田島先生は麗澤大学から私と主任教授だった田中駿平先生を呼び、大学生を続けずに父親を助けて羅紗店から転業しテーラーをするようにアドバイスをしたのです。田中駿平先生はそのアドバイスを聞きながら深刻なお顔をされていたのをよく覚えています。ただ私本人は父親の仕事が芳しくなかったのは子供心ながら察知しており、さほどショックも受けず、「わかりました。辞めて仕事します。」と即決しました。それがオーダーサロンタナカ誕生の瞬間。

その後2ヶ月は大学に居ながら、東京・根津の伊丹裁断教室に通い、洋服のパターン作り、裁断を学んだのち、7月大学を中退し、その夏、当時東大阪にあった現在の縫製工場の前身ランクロージングで当時の社長故浜田義信さんのご厚意で縫製を学ばせていただきました。そして9月オーダーメイドのお仕事をスタートしたのでした。

故田島正芳先生のご子息である田島忠篤教授にコーヒーを入れていただきながら、立ち会い人でもある田中駿平先生とともにそんな思い出話をしたのでした。初心を思い出す、そんな本当に貴重な一日でした。

田島忠篤教授と
偶然に会ったゴルフ部先輩、山崎常務理事と。